発表会と純粋さ

我が子の幼稚園の発表会(歌と劇)に行ってきた。風邪をひいて何日も休んでしまったので練習不足で気後れしていた。それでも本人は楽しみにしていたようで参加できて良かった。周囲を見ながら踊る我が子。親として舞台上の子供には何もしてやれないことを学んだ。一度本番が始まれば先生の最小限のサポートがあるものの、進行は止められない、本人がやり切るしかないのだ。

幼稚園児は遊びの中から思考力やたくましさが育成されるという。だからいっぱい遊ぶことが子供には大切なことだ。みんなと一緒に歌ったり踊ったり、これ以上の遊びがあるだろうか。舞台を完成させるために、日々練習を繰り返し、小道具を作り、健康管理をし、みんなの意見を聞き、話し合いをし、先生の言うことに従い、全員で一丸となって団結し、助け合い、保護者たち観衆を楽しませようと緊張の中でも元気を出す。

私達大人が営んでいる社会生活の元を子供達の演劇の中に見た。一つの目標のためにみんなで協力して役割を演じることや、正しさと美しさの追求、助け合いや競争心というものを。真剣に遊んでいれば必ず課題が出てくるものだ。同時にそれを乗り越える力も。その課題に取り組んでいくことが社会生活だし、人生だと思う。

子供心に浮かんだ疑問のいくつかは大人でもはっきりと答えられないことがある。例えば、戦争とか貧富の差とか、運命だとかこの世界は何であるかとか。子供はストレートだ。だからこそ物事が難しくなる前に解決できる。欲や面子という、埃の付いた大人には難しいことも子供は簡単にやってのける。例えば人を許すということ、自分の過ちを認めることと頑固さの同居、自分の取り分などを全く心配することなく人と分け合うこと、習慣を変えること、あるいは立ち直りの早さなど。

子供達は純粋だ。私はその純粋さの中に明るい未来を見た気がする。子供達は誰に教わって子供らしくなっているのではない。それははじめからそうなのである。ならばそれは人間の本質がそうなのである。その本質の周りに経験や知識を巻いて、あるいは目や耳や口を塞いでその時の社会に適応しようとしているのが大人ではないか。子供はいつの時代、どこの世界でも同じようだが、大人になれば時代や地域によって大きく考え方も異なる。その大人も誰一人かつて子供でなかった人はいない。

子供の純粋さに任せておけばいいということではない。純粋ではあるが何も分からない子供に任せることほど親として無責任なことはない。次の世代へ、この世界を先に去る大人の一人として引き継ぎをしなければいけない。しかしそれは何もかも今まで通りにやれということではない。いろいろな社会問題に対しては、それを解決するための新しい発想、あるいは怖いもの知らずの若さというものが必要だろう。親として指導はするが、人間の純粋な精神以上に世界に有益なものはないということも分かっている。

遊びの延長に人生がある。子供の遊びも大人が上手くリードすれば大変有意義である。そこには思考力やたくましさ、思いやりを培う土台がある。小さな子供たちのひたむきさを見て感じた。そのひたむきさそのものに価値があり、それによって生じる上手い下手、成功や失敗、勝敗などの形には意味などなく、ひたむきであることだけが成功であり、幸せなことである。

ひたむきさというのはもちろん精神のことである。心を込めるとか、心がけを大事にするということである。人に見えない心だからこそ、それを感じた時には何もかも分かるものだ。




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